昭和五十六年一月三十日 朝の御理解


御理解第六十六節
 人間は勝手なものである如何なる智者も徳者も生まれる時には日柄も何も云はずに出て来て居りながら途中ばかり日柄が吉いの凶いの云うて死ぬ時には日柄も何も云はずに馳って去ぬる。


 教祖様は生まれる時も死んで果てていく時も日柄も方位も云わずに馳って去るとこうおしやっている事はどういう生き方をする事が本当なのかという事をこゝでは教えておられると思うのです。その途中であり内身である。それこそ盥から盥へ渡る一生である人間は、だからその道中とてもやはり本当の人間の生き方というものがあらなければならない。それをいわゆる天地の大恩を知り字意丁寧な生き方をしていかなければならんとこう思う。私はその事をまあ人間は土より出でて土に帰るのだと頂いとります。人間は土から生まれて土に帰っていくのだと。だから人間の幸を願小ならばいうなりば魂の助けから、そして魂の世界には入っても幸出来る生き方を教祖金光大神は教えておられる。
 土より出てて土に帰るだからその道中とても土の生き方をさせて頂く事によって人間の一生を有難く全うする出けるだけでなくてあの世にまでもその生き方を持っていく事が出けるのだと説かれたわけなんです。例えば、さまざまな事があります。けれども信心を頂いて教えを頂いておりますとそこからのいうならば道が有難く開けてくるどんな場合であってもその頂き方が変ってくる。違ってくる。
 昨日、相当遠い所から熱心にお参りする方があります。その方の娘さんは或る所へ勤めておりましたが、その勤め先から突然いうならば居らなくなった。帰って来られない。まあ大変心配していろいろ手を尽くさせて頂いてようやく分かったのは、或る人と恋愛におちて、そしてまあ駆け落ちをしたわけであります。それでまあ早速お届けがありましてその相手の方も素性やらが分ったんですけれども、親としては立派に貰いに来てもらうとそして正式に嫁めらしたいというのであり、御主人が信心がありませんからもうそれこそ自分所の娘がさらわれたように、立腹されたわけであります。
 昨日電話がかゝって来たんですけれども、落ち着かれた所も分り、そしてまあこちらの気分もおかげを頂いておる所へ、いろいろなまあちょっとした道具やら身の回りの物やらを貰らいにくるがいゝだろうかと電話がかゝってきて、それからいゝ所じぁないよというてまあいろいろ持たせてやって、それこそ最後にはお父さんが大事にしておった、ナポリタンのプランデーまでこれも貰らっていっていゝかしらんといって貰うていくまあ買って送れるおかげが頂けたという事も、こりぁ日頃信心を頂いておらなければ出ける事ではないもう本当に夫婦でその事を喜ばせて頂いたというのです。それこそ近所隣にも親戚中にも恥かしい、本当にもう面つうがない本当に親の顔に泥を塗ってというようなおもいも一時はしたけれども、この正月に引き当てたくじがどういうものであったかというと“笑われて賢うなれ 叩かれて強うなれ”という事であった。それを頂いた途端に私の心がはればれとした。
 はあ、これによって力を受けるのだ。そしてこれによって賢うにもなれば強うもならせて頂く神様の恩神愛のあらわれだった。そしてなお次に分らせて頂いた事はそういうふしだらな事をしてと思うておったがです清濁一如という御凶が願に閃めいてお父さんにもその事を話しましたと、お父さんもそれこそ落ち着いて娘がまあ一時帰ってきて道具をもらいに来たのに対してもまあ穏やかに話す事も又は、あれも持っていけこれも持って、いけといったような事にまでなっておかげを頂いたという電話がかかりました。
 教という事のすばらしい事、教が生き生きとして生活の中に生き表されていっておるという事。昨日は敬親会でございましたが、もう昨日は皆さん一人一人が一口づつではあるけれども発表されましたが関心しました。お年寄りの方達がやっぱり教えに基づいて日々、今感じておる事をおきて今日おきておる又問題を取り上げて信心で頂いて、それをおかげ話とし信心話として発表されました。日々が、そういう教に支えられた生き方なんです。
 信心生活というのは、だから、今申しますように普通信心がないならもうそれこそ、もう娘でもなきゃ、親でも子でもない、それこそ腕の一本位今度来たなら叩き折ってやりたいといったような親の憤りも、本当にこれによって成る程隣近所には恥ずかしい思いをするかもしれないし、親戚あたりからも、いろいろ云われるかも分かんだけれども、本当に清濁一如という事が分り、そして今年はこれでいけよというて“笑われたら 賢うなれ 叩かれたら強うなれ”というみ教えがそのまゝ感じさせて頂けた時に、心は穏やかになって、いやむしろ今後の娘をさらって行ったという、相手の男が本当に憎くたらしい思いであったけれどもその人の上の事も祈るようになったというお礼の電話でした。そういう生き方こそが私は土で土の生き方じぁないかとこう思んです。
 教えが生きづいている。教えが生き生きとどのような場合であっても自分の都合のよいだけがおかげじあない、どのような場合であってもそれを、まともに受けてしかもその有難いという答を出していけて心が安らぎ、穏やかにあるという事が、私は土の信心だと思う。人間は土より出てて土、いわばこゝではそれこそ途中ばかりどうのこうのと日柄の方位のというて死ぬる時には又日柄も云わずに走っていくじぁないかと、人間の云うならば分らないものとは云いながら愚かな生き方。あの世には何んにも持っていく物はない。そういう淋しい悲しい事ではなくて、人間がその道中とても実意丁寧信心をもって生きていかなければならないという事を教えられておると思うですよね。
どうぞ